去年の10月に最後の三葉虫の標本を箱詰めにして蓋をしたきり、その後一度も中を見ていない。標本ケースは四つあって、そのときのまま重ねて置いてある。

さて、この中に入っている標本群だが、開けてみたとき、はたしてそれらは生きているか、死んでいるか?
化石に生きているも死んでいるもないが、しかしこれは微妙な言葉の綾で、化石だって生きたり死んだりするのである。私がそれらを箱に詰めたとき、たしかにそれらは生きていた。といってわるければ、私の生き生きした興味と関心の対象として、こちらにアピールする力を備えていた。そういう力をもっているものが、死んでいるわけはないでしょう。それらはりっぱに力能をもつものとして、生きながらにして保存されているのだ。
ところが、である。現在化石に対する興味の大半を失った私にとって、ほとんどの化石は訴求力を失っている。たまにオークションサイトを覗いても、なんの新味もないような標本が、バカみたいな値段をつけられて並んでいるのが目につくばかり。私とは何の関係もない、たんなる死物の送迎。私はため息をついてブラウザを閉じる。
そういう状態にあって、私の標本箱のなかの化石たちは、はたして大丈夫だろうか。
いまのところは、それらが生きているか死んでいるか、私には確言できない。なにしろ、まだ蓋を開けて中を見たわけではないのだから。それらは、シュレーディンガーの猫のように、生きているのか死んでいるのか分らない状態で、箱の中にひっそりと保存されている。
こういう状況なので、私は箱を開けて中身を見る勇気がない。だって、もし死んでいたら、これほどのショックはない。あんなに一所懸命集めていたものたちが、生気のない死骸になって横たわっているなんて、想像するだけでもおぞましい。
だから、いまのところ、箱は開けずにそっとしてある。私はまだ完全に化石と縁が切れたわけではないと自分では思っているので、箱のなかの化石たちは生きていると信じたい。信じたいけれども、しかし、その信念が確固たるものになるまでは、箱を開けるわけには行かないのだ。
まあそういっても、たまには箱を開けてちゃんと管理するのが正しい道なのではあるけれども。